昭和四十五年四月二十四日  朝の御理解


X御理解第八十一節  「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って、向こうへ降りたらそれで安心ぢゃ、気を緩めると直に後へ戻るぞ。」


 最後の五分間といったやうな言葉をよく使います。もう、これで大丈夫だとゆうところ迄、例えばこぎつけましても、後五分間のところで、アッとゆう間に崩れてしまうと、いったやうな場合、この御教にはそうゆう意味も含まれていると思います。これはもっともっと深い意味に於いて頂かにゃならん。
 これはひとつの願い事でも本当に、願いを立てましても、おかげを頂いてですねぇ、例えば病気なんかの場合、もうこれでおかげ頂いたと、日々確かにおかげ頂いてですねぇ、例えば病気なんかの場合、もうこれでおかげ頂いたと、日々確かにおかげ頂いていっておる。そこでちょっと、腰かけますとね、又元に戻るといったやうな事があります。ひとつのおかげといったやうな事でも、やっぱりそうですけれども、これをもっと、もっとですねぇ。気を緩めると直に後に戻るぞとか、向こうへ登りきったら、登り切り向こうへ降りたら、それで安心じゃと、おっしゃるやうなところはですねぇ、もう少し遠大なところにおかなければならない。
 例えばここに一生とゆう事、又の御理解に一生が修行じゃとおっしゃる位ですから、ですから、一生が修行ぢゃとゆう信心に於いてです。例えば九里半だとかもうそばだとかいった事のあるはずはないのです。
 ですから、まあ云うなら私共が有り難くお国替のおかげを頂いて、私共が一生の幕をとじ終わって初めて、安心だとゆう事、そしてあの世に行ってから初めて安心じゃないかと、そうゆうやうな意味で頂かなきゃいかん。
 そこで私は氏子十里の坂を九里半登ってもとおっしゃるところをですねぇ、もうすぐ側だと、もうおかげが間近だとゆうやうな見方が人間ですから、もうひと頑張りだといったやうなですねぇ、安易な心にかられて、もうしめたもんだぞと、もう頂上はそこに見えてきた。こうゆう考え方が信心させて頂く者の心がけとしてです。一番つまらんやうに思います。
 教祖さまはよく「今年」とゆうお言葉をよくお使いになったそうですねぇ。だから、教祖の場合の御信心はです。いつの場合でもこの今中とゆうお気持ちがおられ又、そうゆう風に教導なさっておられたと思うのです。
 いわゆる、もういつもがですねぇ、九里登ったとか、九里半登ったとかゆうのではなくてですねぇ、いつもが今が真ん中だとゆう考え方ですねぇ。
 これは私自身信心を振り返ってみましても、それを思います。もうこれでよいと思うた事も有りませんし、ああおかげがもう間近だと思うた事も、ひとつもない。何故っておかげとゆうのが遠大なところに置いてありますから。
 ここのお広前が建立した時に、皆さんが祝い言葉とゆう意味ですねぇ、先生これで御安心ですね。お芽出度うございます、と。立派に出来ましたといったやうな御挨拶を受けます時、私はひとつもそれを実感として受けなかったんです。
 まあだこん位な事は序の口だと、いったやうな思いですからねぇ、もうこれで成就したなんて、ひとつも思っていません。事実これはもう、私の実感です。いません、事実これはもう、私の実感です。まあだ、まあだ久大線のあそこの辺位迄は、例えば家を建立するに致しましてもですよ。まあだ合楽教会付属の学校が出来たり、病院が出来たり、養老院が出来たり様々な社会施設といったやうなものもですねぇ、出来ていいいのですから、又出来なければならんのですから。
 ですから、それは只ここにです。このお広前とゆう事は、只そうゆう信心、そうゆうおかげを受ける稽古の場がね、ここに出来ただけで、まあだこれから稽古してゆくのですから、どれだけの事がなされていくか分からんのですよ。事実が‥‥‥。ですから、これでもう安心といったやうな事は‥‥‥。
 よくお広前が見事に出来上がりましたりね、致しましすと、そこの教会長先生がポックリと亡くなられるといったやうな例はいくらも有るのです。
 それがですねぇ、もうこれだけの事が出来たから安心とだから、そこの先生の願いが、これは私が推察するのですけれども、私の一生一代のうちに、立派なお広前を建立せんならん、とゆうのが願いじゃないでしょうかねぇ、ですから、その自分の一生に一度の願いといったやうね願いが成就しますから、やれやれとゆうやうなのが出てくるからポックリしくやうな結果が生まれてくるのじゃないでしょうか。
 それは、つい最近でも九州でも、そうゆう例がいくらも有ります。今頃、御本部で教会の写真展が有ります時に、そこの教会の写真も出てました。そして思うのです、実にその小規模な教会なんです。それは合楽当たりのお広前とは全然比でものにならないです。それでも自分としては、そこにつういっぱいの教会を建てたと思うて自分の一生に一度の願いとゆうのが成就したところから、もうその成就が間近にして亡くなられたり、成就してからすぐ亡くなられたりとゆう風に教会長が亡くなっておられます。
 私は合楽の御信者さんの場合にも、それを感じます。あまりにこじんまりですねぇ、マイ・ホーム的なおかげばっかり頼っている人が多い事です。まあだ、げいしょんかなわんくせにです。ちょこっとばかりの家を建てたと云うては、もうそこにあれも出来た、これも出来たとゆうて、固まってしもうとる。おかしな話しです。
 部屋には、それこそ所狭しと、電気製品が置いてあったりですねぇ、まあだ、まあだそうゆう道具なら、どこよかとです。
 それも、例えば自然に集まってきたとか云うのならよかばってん、自分でそれこそ買い求めてから、そうゆうやうな小さい、小さい計画を立てる。その計画が成就する事で満足してるといったやうな感じの御信心者が多い事です。
 まあだ、まあだそれこそ遠大なおかげを頂かせて、遠大なところに焦点が置かれての信心であったり、おかげでなからなならんとゆう事だったら、そんなにバタバタ急ぐ事はいらんと思うのですけれども‥‥‥。
 これはまあ私の流儀で云うならですよ、まあだ家にはポンプでやりょると、それがどこがいけないですか、まきで御飯たきよるのがどこがいけないですか。ポンプでガッチャン、ガッチャン云うてから水を汲む事がどこがいけないですか、猫もしゃくしもそうしなければ、まるきり文化人じゃないやうに現代の人の生活じゃないやうに思うですねぇ、いわゆる目先の小さいおかげにきゅうきゅうとして今度はそれを月賦で払うのが大ごつと云うごたる信心をしよる。
 私は、ちょいとあっちだけは感心なこつじゃあると、もうそげなこつなんかには全然頓着してござらんといったやうなね。おおらかな大きな信心せないかんと思う。むしろそれを誇りにする位な信心がなからないかんと思う。
 借金おいかぶっといて、あれをし、これをしてどこが気持ちいい、私いつか敏雄さんに云うた事が有るのです。もう隣近所が立派な家にどんどん建っていく、いわゆる新建材を使って、けばけばしいお百姓さんじゃろうか給料とりやら分からんごたる家が建っていく訳ですよ。
 それで敏雄さん、あんた方はあげな家どん建てなきんなと、私が言うのです。云うなら大きな麦わら家ですがねぇ、あちらは‥‥‥。部屋でもたくさん有るとですよ。だから家でも建てられる位におかげ頂いたらね、もうあのままを、あれをもっと立派にしていきなさい。云うなら希少価値の出来てくるおかげを頂きなさい。麦わら家はいいなあと、昔の家はいいなあと、大黒柱のこんな大きな柱が立って、もうそれこそ黒光りするやうなね、いわゆる云うなら民芸風のね‥‥‥。
 だから、町の人達がです。いよいよいろんな新建材を使って、建てた家にもうぼちぼちあきがきよるのですよ。それを猫もしゃくしもしてもうて、昔のよい時代の建物が無くなっていく。だから、それを燃やして作っていきよるとゆうのが町には段々出来てきた。民芸調の家なんてのがそれです。
 もう本当にね、そこんにきに信心のひとつの根性といったやうなる事を云われるが、そうゆうところにですねぇ、根性をまわせる信心にならなきゃいかんと思う。いかにも時代遅れのやうに思うたりするやうな考え方じゃいけん、只便利とゆうやうな事ばかっりを考えて、そして人がすれば、それに皆んながついていく。十分実力持った人の真似をして実力のない人が真似をしてゆくから、おかしな事になってくる。まあこれは、ひとつの一例ですけれども‥‥‥。
 私はそうゆうひとつの根性とゆうものがなからにゃいけん。そこで、お互いの信心の目ざしとゆうものはね、もっともっと遠大なところに、まあだそげな段じゃなか、それこそ、只今、修行中とゆう看板を上げとるやうな気持ち、それこそいつの場合でも今中とゆうもの。
 そうゆう生き方の中にです。どうゆう例えばおかげを頂いても、こうゆう素晴らしいお広前が建立されて先生お目出度いとは思わない、信心もこれで済んだとは思わないが、おかげもこの位‥‥‥。まあこの位と云っちゃ相済まんですけれども‥‥‥。神さまはまあだこの位の段じゃなか、おかげを下さろうとしておる事は‥‥‥。と私は思います。
 人の難儀が助かる事の為の教会ですもの。だから教会施設といったやうなものでも、これでよいはずが有りませんもの。まあだ、まあだどれだけでも進展してゆけれるおかげの頂けれる、為にでもです。お互いがもう十里の道を九里半登ってもといったやうな言葉もです。私には今日はピンともこない。もういつも今中とゆうのである。素晴らしいものの考え方だと思います。油断が祟るなんてものじゃない。
 私は先日、お道の書物を読ませて頂きよりましたら、こうゆうやうな事が書いてあった。「このやうな異常な歴史の時点に於いて、こそ永遠の真理と信ずる喜びから開ける道である。人の心に魂のふるさとを教示する責任を持つ、宗教本来の使命は大きい。」
 こうやうな事が、これはちょっと抜粋した訳ですけれどもねぇ、このやうな異常な歴史の時点とゆう事は、私が最近言っておる事です。もうそれこそ、七十年とゆう年柄はね、大変な事だと様々な云わば事が革命していかれようとする。そうゆう年柄、そうゆう時点に於いてです。いわゆる異常な歴史の時点に於いてです。いわゆる異常な歴史の時点に於いてと、もう普通じゃないとゆう事です。いわゆる精神革命が叫ばれる。
 そうゆう時点に於いてです。いよいよ永遠のそれは真理だと、お道の信奉者が信じておる、喜びで開ける道じゃから、喜びでは苦労せんとおっしゃるやうなです。そうゆう理念とでも申しますか、これはいつの時代、どうゆう時代になっても、これはもう永遠の真理だといわゆる和賀心時代と、私が言っておる、いよいよ和賀心時代に入らなければ人間の幸福はありえないのだと。
 そうゆう異常なまでの歴史の時点に於いてです。この七十年とゆう年柄がそうゆう年柄だと、本気で私共がひとつ和賀心運動とゆうものの、展開がです。今年から本気でなさらなければならない。先日、薬院の先生のお説教の中にも有りましたやうにです。もうお道の信心の究極のところは、天地書附だとおっしゃったでしょうが。
 だから究極のところが天地書附なら、その究極のところに焦点を置いたらいいのですけれども、枝葉の所ばっかりだからなあにもいらんのです。だからそうゆうところを素朴に単純な頂き方をまずしなきゃ、いけないと思うのです。 お互いが、お道の信奉者が皆んな、そこは分かっているのです。もうぎりぎりのところは天地書附だと云うている。云うているならね、その事の為にです。和賀心とゆうものを追求していく。和賀心にならせて頂く事の為には、そんなら、どのやうな信心ったらいいか修行したらいいかとゆう事を本気でそこだけを究めていったらいいです。素直に素朴にあまりにも単純かもしれませんけれども‥‥‥。それを焦点にしていく事の為の全ての教えが、その事の為に有ると云うてもいいのですから。難しい事を言う事いらんから、いわゆる和賀心、和賀心とゆう事をです、いかにしてその和の心、賀の心を頂いてゆこうかと、ゆう事。それを教祖さまは又のお言葉では、此方の道は喜びで開けた道とおっしゃておられる。だから、喜びでは苦労はさせんとおっしゃるやうなです。永遠不滅の真理なのです。
 ですから、そうゆうやうな事をです。そうゆうやうな事をです。そうゆうやうな事は、人の心に魂のふるさと、と表現してあります、が、人の心の魂のふるさと、そうゆう私共が和賀心にならなければ、賀びの心を頂かなければです。人間の本当の幸福はありえないのだと、それはね私共がふるさとに帰らして頂いたやうな心安らかな喜びといったやうなものが心の中にあるんだとゆう事を教示する責任とゆう事、それを皆んなに教えていく責任が有ると云うておられます。
 そうゆう事を世界の人類全てにです。心のふるさとの在り方とゆうものをです。教示してゆかなければならない責任、これは宗教本来の大きな使命だと、これは金光教だけではないですけれどもね、特に金光教ではです。いわゆるその喜び、いわゆる和賀心、信心によって頂けるところの信心の喜び。
 それをですねぇ、私共はそうだと素朴にですねぇ、単純に理屈を云わずに、そこんところが頂けれ、思い込まれる訳ですけれども、体験が伴わないますから、それを私共が頂ききってです。それを人に教示していく責任があるんだと、宗教人全てが‥‥‥。
 そうゆう素晴らしい信心理想といったやうなものがですねぇ、お互いの中に生まれて参ります時に今日私が申します遠大なところに焦点とゆうのが有る訳です。
 私はここを抜粋させて頂く時にですねぇ、「合楽を代表する良心」とゆうやうな事を頂いたんですよ。今、合楽ではね、もういわゆる和賀心時代とゆうものを合楽の信奉者全部がね、その運動に参加し、その事に焦点を置いて素朴にそれこそ単純な考え方かもしれないけれども、そこにお道の信心の真髄が有る。心のふるさとがそこに有る。そしてそこから、おかげは和賀心にありとおっしゃるおかげを云わば示してゆく。云うなら教祖のお言葉を表していく。実証してゆく。そうでなからなならんと合楽の者は一生懸命だとゆう事をです。私は皆んなに語られる心、これが現在合楽でどうゆう信心しておるかと云うたら、今私が申しましたやうな事がです。語られる、それが私は合楽を代表する良心とゆうのは、そうゆう意味の事じゃないかと思うのです。
 だから合楽の者は、誰あれもいっちょんおかげ頂いとらん、まあだ今中だから、そんならどうゆうおかげを頂いておってもです。今はだからおかげ頂いてはいない。こうゆう立派なお広前が建立されたと云うても、まあだこれは序の口と思うとるとゆうのがです。私は合楽を代表するところの良心であり、又表現するなら言葉であると、私は思います。
 そしてです。分かっても分からんでもです。これだけは私共がどこででも、それを力説しなければならないとゆう事は、私が今後の御大祭でも申しましたやうに、現代人の時代おくれとゆう。
 新建材を使ったお家を建てたり、電器製品をいっぱい部屋の中に並べたてたりする事がです。現代人じゃあない、そうゆうですねぇ考え方をひとつ、根底的なところからです。云わばこうしてゆかねばならん。家はそれこそ昔ながらの麦わら家でもかんまん、中に住わせて頂いておる人間の心とゆうものがです。こうゆう例えば異常な歴史の時点に於いてです。家とかそうゆう住まいのいろんな環境といったやうなものは、それは昔ながらでもいいのだと。
 けれども心がです時代遅れをしてない。科学文明の時代と、いわゆるコンピューター時代と云われるそうゆう私はです、時代に突入しておる。そのもうひとつ向こうにはです。精神革命が有り、その精神革命とゆう事はです。私共が人間が幸福にならなければ人間の幸福はありえないのだと、ひとつ思い込み分からせて頂くとゆう事。そして、そこんところへ焦点を置いて、和賀心とは、和賀心とはと、和賀心をいよいよ追求していくところの信心、それがです。いわゆる時代の先端を行く者の生き方だとゆう事をです。「そげな馬鹿なと、夢のごたる事を」とたとえ言われてもいいから、私はこれが言えれるのが、今の合楽の信心を代表する、良心でなからなばならんと、思うのです。
 しかも世界三十五億と云われておる地球上の人間にです。まず合楽を起点としてです。それが世界中に広がっていくとゆう大きな願いを私が立てておりますから、皆さんとてもそうゆう大きな願いのもとに信心を‥‥‥。いわゆる遠大です。願いとゆうものが‥‥‥。それが実現するのは何億年先か分からんのです。実を云うたら‥‥‥。
 だから本当に誇大妄想狂のやうに聞こえるかもしれませんけれども、けれども千里の道も一歩からとして、その一歩、二歩を着々として合楽の者は進んでおるんだと、そしてそこにはですねぇ。それこそ、夢のやうな事言うておるのではない。それにはおかげが頂ける、と確信のできる程しのです。おかげがそれに伴うていく。日々の喜びの生活の中からです。そうゆうおかげを実証していくとゆう責任です。そうゆうものを私共は持っておる。
 そして人の心の魂のふるさと、とゆう事を皆んなに教示してゆかねばならん、これは合楽を代表する良心に於いてであります。
 そこで私は今日の御理解八十一節をです。ひとつの小さい願いを立てましても、その願いが例えば病気なら病気とゆう事でも、おかげを頂いて医者が見放したとゆうやうな病人でも段々おかげを頂いてきて、もう大丈夫ここ迄おかげ頂いたら、とゆうやうなところ迄いってもです。決して安心は出来んぞと、又一辺に戻ってしまうやうな事が有るから、用心しなければならないぞと、ゆうやうな意味にも頂けますけれどもです。私はです。現在の合楽の信心から云うたらです。それを私共が今中とゆうお言葉をいっても私共信心させて頂く者の心がけとして、いつもどんなおかげを頂いても今中だと、これがいっちょ出来れば、もう成就したといったやうな小さいマイホーム的なおかげからです。もっと、もっと大きなおかげを願っての信心、それであるところにです。いつもがね、今中とゆう実感、それでこそ一生が修行じゃとゆう意味も本当に分からせて頂くのであり、そこに蓄積されていくところのお徳と云うか、それを持ってあの世にも持ってゆかれるおかげを頂かせてもろうて、あの世に持ってゆけるものの準備が段々出来てこそ、初めてそれで安心じゃとゆう事に今日は頂きました。
 どうぞ、ひとつ誰でも十里の道を九里半迄登ったら、誰でもやれやれが出ましょう。けれども、九里半とか八里半とかじゃない。私共の場合、いつも今中とゆう気持ちが信心させて頂く者の心がけとして、必要であると、いったやうな事を強調致しましたですね。どうぞ。